1943年京都府福知山市に近い下夜久野の清酒「花清水」酒造を営む父、荻野馨の三女として生まれました。幼少の頃、横に倒して干してある大きな杉樽の中で遊んだ覚えがあります。酒造期の冬には蔵人達が忙しくしていました。父が若き日、春陽会(洋画)で三岸節子、鳥海青二等と交友があり、画家を志したのですが戦中時代に家族と共に生きる為に酒造の方向を選びました。母は札幌出身で北海道展に水彩画で入選した経験があり、私は両親の影響を少なからず受けた様です。いつの間にか小学3〜4年生の頃には展覧会の出品生徒となってました。描く意味は何も分からなく、唯、描く楽しさだけで良かったのです。
中学生になった頃より、描いた絵の批評を父から聞きたくて忙しい父の通る動線になんとか目を止めてもらえる様工夫して立て置きしていました。初めは「なかなかいいね…。」と少し褒めて呉れるのですが、段々酷評になって、最後はもう「これでは駄目だ!」「デッサンが出来てない!」とかボロ糞評で終わりです。一体「デッサンが出来てない!」ってどう言う意味なのか分からない儘。膨らんだ風船の空気が抜けて序々に窄んでしまう様に、やり切れなさが残ってましたが、まぁそこは前向き性格で逞しく今度こそ!と何度も描いてはペチャンコにやられてました。
一方で私はその頃、作文に興味があって(これも後で父の影響かも知れないと思いました。)雑誌に短編を投稿して、一席の賞品でセルロイド製の万年筆を貰った時は、嬉しくてしようが有りませんでした。ペン先がガチガチで書いていると必ずポトッとインクが一滴落ちて、溜息ばかりついてました。又、中学一年のときに全校で読書感想文コンクールがあってパールバックの「大地」に就いて出したところ一等になり、嬉しさより、信じられない気持ちの方が大きかったです。作文の方は全く自身自由で楽しかったです。
然し、環境からくる影響と言うのでしょうか。私の部屋は二才上の姉と一緒に二階の8畳間を使ってました。壁一面が天井から下まで全部父の蔵書で埋まってました。明治、大正、昭和の総ての文学全集、万葉集、俳句、短歌、書道全集、画集、陶磁器、カメラ、建築に至るまで有らゆる多方面に…よくも揃えたものだなぁ…!でした。田舎に住んでいるからこそ、書物が父にとって、自分のペースで探求出来る唯一のもので有ったと言えます。父は何か威厳を漂わせ私には近寄り難い雰囲気でしたのでいつも緊張していました。だからこの凄い蔵書に手を出す事も恐れ多い事であったのです。自分で買った本は隅の机の横に並べていました。