師とする父と私の生い立ちに就いて2

 父は短歌の方にも力を入れて同人で「子午線」と言う歌集を発行していました。斎藤茂吉氏の孫弟子で、後々、清酒「花清水」のラベルは茂吉氏の文字になりました。味のある大らかな、流石、大家の文字でした。

 又、同じ頃の記憶で、父が富本憲吉氏の作品集を私に観せて呉れました。「この人は100年に一人と言われる程の陶芸家だ!」と言ってたのを覚えています。びっしりの模様が整然として絵付された壷でした。又、徳利はすごーく、ウエストが細くキューッとしまった魅力的な感じだナァ…。フーンと勝手に鑑賞していました。新匠工芸会展に初出品した42年前に(そ の後現在まで連続出品)この会が富本憲吉氏や稲垣稔次郎氏等が創始された在野、美術工芸団体の会であったと知り私にとって、その作品集を通して細い一本の糸が繋がっていた様に感じました。

 何でもよく出来る人だったので彼の前では子供達は皆、注意されるか、説教される事に決まっている様なもので敬遠されていました。私は5人の末子だった為に「あんたが一番可愛がって貰ったんや!」と父が亡くなった通夜の時に兄や姉達から言われました。そうなんか…。そうなんや…!。皆は大変だったんです。いつも鶴の一声で、総て彼の意志の通りに行動する事を要求され、何度も衝突する度に挫折感を味わい辛い事でした。私は幸い絵や文学が好きであった為に父との共通する範囲の内で多少は説教から逃れられる隙間と緩和剤を持ち合わせていたんだと思います。その点は幸せでした。そして兎角、秀でる才能を持っている人は、純粋ですが、それ故に頑固一徹で他のものを受け入れ難い性格の人が多い様です。特に父の様に片田舎で生まれ育って友人との交流が少いと尚さらです。

 昭和10年前から父は写真の方に手を出し自分で現像していました。絵を描くより短期間で結果が出る為にその方で心を癒していたと思われます。それから80年近く経った今、その写真の一枚は私のアトリエに貼っています。カメラを通じて彼が如何に構図、光と陰の部分に心を集中させていたかが伝わってきて、この一瞬、一点に胸が熱くなります。