師とする父と私の生い立ちについて3

 父が亡くなって36年経ちましたが、環境や生き方、性格、存在そのものが師とするもので有りました。清酒「花清水」の味は日本一!でした。雄大な山を遠方から眺めるが毎くに豊潤で包み込まれる様なうまい酒でした。

 昭和9年(1934年)当時、お酒にサルチル酸と言う人体に猛毒の防腐剤を含有しているのは当たり前の酒造業界でした。然し、日夜の研究の結果、一滴も含有せずに世に出す事に成功しました。学生の頃に楽しく花見酒を飲んだ人達がどうして後で気分が悪くなって吐き、苦しむのか…。楽しい筈の場が…。これは何かお酒に原因が有るのではないか。人体に毒を入れる食品は決して作ってはならない! 信念を通すのみでした。昭和44年、チクロ騒ぎをきっかけに世は食品公害、有害な食品添加物を追放する動きが高まり、日本酒の防腐剤に使われているサルチル酸にも及びました。この年、朝日新聞に『防腐剤使わず酒造り30年』と大きな見出しで父の事が報道されました。而して、その6年後、昭和50年、8ヶ月間に渡り小説家、有吉佐和子氏の『複合汚染』朝日新聞、連載小説は食品公害に就いて世論の意識を高め大反響となりました。郡司篤高氏の『うそつき食品』もベストセラーになりました。父は「食品製造者として当たり前の事をしただけ」と言ってました。酒造界の魁として、そんな父を誇りに思いました。(話は前後しますが)火災の為に昭和41年夜久野からお酒の本場、伏見に移転し家族総出で清酒「花清水」の再興を目指しました。家族の苦労と父の功徳の甲斐あって、間もなく京都にファンも地盤も出来たのは、世論の後押しも大きく感謝でした。

「察することは美徳!」とも教えられました。変な話ですが、父が鉛筆を持てば消しゴムを持って走りました。「自然は嘘をつかない!」蔵人の欠員(急病で)が出来て、一と冬、酒の元屋の手伝いをした時に醗酵する状態を調べ乍ら教えて呉れました。而して、少し小さい声で「人間は嘘をつくからなぁ…」と残念そうでした。又、科学的にデーターをいつも採っていました。 今の私の染色はデーターをしっかり採る事を基としています。それは、父の酒造りとの傍らに居て自ら勉強出来たのです。

 1980年代は殆んど市との関係が深い。京都は北部、花背の山奥生活5年後、北野天満宮の近くに越して来て、北野の市に行った時に、この人ごみの中で流れ動いている老若男女問わず凄い人達との出会いは沈黙的5年間の反動で衝撃でした。この凄い数の人を通して、何かが出来る! 直感的に感じました。それが市への出店となりその後9年2ヶ月間に渡り続けました。

 市がきっかけで襖の注文が入りこれが新匠工芸会展で稲垣賞を授かり、1981年、月刊誌染織α、創刊号の表紙と記事になったりしました。毎月が新作発表の場でも有りました。暮らしの中の工芸作品(0歳から高齢者までに楽しんで使って頂きたい)の原点はこの市からでした。その市では約1000人の方々が私に住所を残して頂きました。有り難うございました。改めて、沢山の方々との暖かい出会いで勉強させて頂いた事に感謝を申し上げます。

 又、1982年に型絵染教室『染翔会』を開設して現在に至っております。私が新匠工芸会に所属していますので、公募展である為に出品制作の指導もさせて頂いています。創始者、富本憲吉氏の『模様から模様を創らない』の言葉を代表者の伊砂利彦先生も唱えられ常にご鞭撻下さるのを心して微力ながら今後も一層、後進の方々にお役に立てさせて頂ければ幸いです。

 ローケツ染め5年。織物5年。型絵染め35年の現在に至りました。多くの方々のご理解と暖かいご支援あってこそ、ここまで来れました。深く感謝申し上げます。ホームページを開設するに当たりペンを執らせて頂きました。(長々と読んで頂き有り難う御座いました。)
<2009.06.30記す>